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第15生都協市特第1631号・2006年9月26日名称変更認証
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日本のお葬式  

 1、縄文時代(紀元前10000年〜紀元前800年前)
  縄文時代 には、素掘の穴に遺体を埋めるのが普通だったようです。また、住居の近くにまとめて掘られた穴に、土を盛って石を並べたり、川原石で棺を形作ってその中に遺体を入れたり、木棺に入れることも合ったようです。
 縄文時代も後期になると、遺体を樹皮でくるんだり、装身具を身につけたりした例もあるようです。


 2、弥生時代(紀元前800前〜紀元後200年)
 弥生時代を通じて素掘りの穴に遺体を入れる「土こう墓」が一般的でした。しかしどの程度の広がりを持っていたかは不明ですが、弥生時代はじめに朝鮮半島から伝えられた支石墓(直径1〜2メートルの板状の石を小さな石で支えて持ち上げた墓)が、弥生時代前期末には甕棺(やきものの甕)が使われるようになります。垂直に掘って穴に甕を入れて石などでふたをするなどのやり方が多かったようです。
 また、関西では箱型の木棺が多く、関東ではいったん埋葬した遺体を壷に入れなおす再葬墓が行われるなど、さまざまな葬制が発達したようです。


3、古墳時代(紀元後200年〜紀元後700年)
 古墳時代には、溝が掘られ、盛り土がある墓(方形周溝墓)が登場します。墓地は数基から数十基の規模の物が多いのですが、滋賀県の服部遺跡のように数百もの方形周溝墓が並んでいるところもあります。
 この方形周溝墓はやがて前方後円墳に発展し、全国的な広がりを見せます。
 古墳時代の後期には、中央集権化が進み、地方の権力者が弱低下し、古墳が小型化し小型古墳や横穴式の墓が多く作られるようになりました。
 

4、歴史時代(文字で書かれた歴史がある時代)

 (1) 大和政権が全国を掌握し、安定してくるとともに、権力者の葬儀は大掛かりになってきます。もちろん権力者の場合ですが、殯宮(もがりのみや)をつくり、近親者がそこで喪に服し遊女が鎮魂のための儀式を行ったとされています。この殯宮での通夜は今でも(昭和天皇の死去の際にも)行われているようです。
 他方、一般人については、魏志倭人伝に「その死するや棺有れども槨(木の囲い)無く、土を封じてツカを作る。始めて死するや、停喪(喪に服す)すること十余日なり。時に当たりて肉を食わず。喪主哭泣し、他人就いて歌舞し飲酒す。已に葬るや、家をあげて水中にいたりてソウ浴し、以て練沐の如くす。」と書かれています。
 死ぬと棺に納めるが、槨(棺を覆う施設)は作らず、土を盛り上げて冢(チョウ)をつくる。死んだとき、さしあたって十余日は喪に服し、その間は肉を食べず、喪主は声をあげて泣き、他人はその周りで歌舞・飲食する。
埋葬すると、一家をあげて、水中でみそぎをし、中国で一周忌に練絹(ネリギヌ)を着て沐浴するのとおなじようにする。

 今でも田舎に行けば、葬式には三日間は飲み食い自由というところがあるとおもいます。一昔前まではそれが当たり前でした。こういう習慣は、廃れず続くものだと感心させられます。

 (2)大化の改新=@薄葬令
 西暦645年、律令国家を目指して、大化の改新の詔が発せられます。同じ年に薄葬の詔が出されました。殯を禁じ、身分によって細かく墓の大きさを定め、殉死や副葬品を禁止しました。詔は、大規模な葬儀を「おろかな人が行うことであり、民の貧しいことはもっぱら権力者が大きな墓を作ることによっている」と書いています。
 この薄葬令をもって、古墳時代は終わります。

 (3)大化の改新=A埋葬場所の定め
 同じ詔には、「汚らわしく処処に埋葬せず、一所に埋葬せよ」として、墓地を定めました。これは、後(701年)の大宝律令の喪葬令においても、「皇都とその道路の側に埋葬してはならない」と定められました。これは、おそらく死体の遺棄に近いことがされていたことを物語るのではないかと思われます。

 (4)火葬
 7世紀になると仏教の影響を受けて、火葬が行われるようになります。日本における最初の火葬は、西暦700年(8世紀初頭)、法相宗の祖・道昭だったと伝えられています。(しかし実は、7世紀はじめの遺跡から火葬の跡が発掘されています。)
 703年持統天皇が遺言によって火葬されます。その後、文武天皇、元明天皇、元正天皇と火葬が続きますが、その後天皇家の火葬は途絶え、840年淳和上皇から再び火葬が始まります。
 淳和上皇は、「魂は天に昇っているのに亡骸が墓にあって、これに妖怪が住み着いて悪事を働くといけないから、火葬後骨を砕いて山の中に撒き散らせ」と遺言し、大原野西山に散骨されました。嵯峨上皇も、薄葬を実行するために、細かな遺言をしたそうです。

 (5)化野・・・空海
 811年真言宗の開祖空海(=弘法大師)は、京都の街に打ち捨てられ野ざらしになっていた遺体を、化野(あだしの・京都市嵯峨野)に埋葬(置いただけか?)したと伝えられています。以来化野と鳥辺野(とりべの)が、京都における庶民の墓地となります。

 (6)「往生要集」
 このころ、この世の末かと思わせる飢饉や疫病の流行にのって、末法思想が広がります。人々は救いを求めて極楽浄土を夢見ます。そこに、惠心僧都源信が現れ、極楽浄土へ行くための方法を説きます。それは具体的な例を引きながらの説法で、源信の地獄や極楽という思想は多くの人々に広まりました。源信はとことん人間を穢れたものととらえ、「南無阿弥陀仏」を念じて救いを求めるよう説きます。
 また、源信が「往生要集」に書いた臨終の作法は、後々まで葬儀に影響を与えます。今日の葬儀の作法の多くが源信に始まったといわれています。

 (7)仏教による庶民の供養・・・僧・隆暁
 1181年、西日本を養和の大飢饉が襲います。鴨長明は代表作「方丈記」に、「道のほとりに、飢え死ぬもののたぐひ、数も知らず(4万余-長明)。・・・くさき香に満ち満ちて、変わり行くありさま目も当てられぬ・・・。河原などには馬車など行きかふ道だになし」と書いています。まさに地獄のようなありさまを、この文章は正確に伝えています。
 このとき、仁和寺の僧・隆暁が京都の町をめぐって死者を弔いました。そのことに鴨長明はよほど感動したのでしょう。方丈記には「隆暁法印という人、・・・数も知らず死ぬることを悲しみて、その首のみゆるごとに、額に、阿の字を書きて、縁を結ばしむる」と書いています。
 「阿」は、100を超える仏教上の意義を与えられ、万物の根源であり不滅であることを意味するそうです。「縁」とは死者と仏の縁を意味します。僧・隆暁は、まことに名も無き死者を供養するという、宗教者らしい志を体現した人でした。僧・隆暁は、京の町で2ヶ月間この行為に没頭し続けたそうです。

 (8)仏教の流行・鎌倉時代
 鎌倉時代には、庶民のための仏教が隆盛を誇ります。法然の浄土宗、、その浄土宗を発展させた親鸞の浄土真宗、一遍の時宗、日蓮による日蓮宗などが開かれました。いずれも庶民の救済を掲げました。
 浄土宗は「誰でも念仏を唱えれば極楽浄土にいくことができる」、時宗も「誰もが1度の念仏で仏になることができる」と説き、特別な修行や寄進が無くても、成仏できるという考え方は多くの民衆に受け入れられるところとなりました。また、日蓮も法華経尾を通じて民衆救済を行おうとします。
 浄土真宗の開祖は親鸞ですが、さらにそれを継ぐ偉大な布教者が生まれます。1415年に大谷本願寺の8代目として生まれた蓮如がその人です。蓮如は、浄土宗の開祖親鸞の「善人なおもて往生を遂ぐ。いわんや悪人をや」(歎異抄)という言葉の思想こそが、すべての民衆を救済すると考て、その教えを広め、それが民衆の間に受け入れられます。
 また、鎌倉時代には宋から禅宗(臨済宗や曹洞宗)が中国(宋)から伝えられます。禅宗は位牌を日本に持ち込みました。もともと仏教には位牌はありませんでした。禅宗は儒教の葬儀に使われていましたが、日本にこれが伝えられると、武士の間に広がりました。

 (9)江戸時代 1.儒葬
 江戸幕府ははじめ儒学を重用します。義や忠といった儒教思想に江戸幕府が目をつけ、封建支配の中心思想としたことは容易に理解できます。
 儒教では、人は死ねば、天に昇る魂=「魂」と地に降る肉体=「魄」に分かれる。と考えられていますから、土葬を禁じました。

 (10)江戸時代 2.檀寺制度
 江戸幕府は、仏教寺院が軍事力を持って反乱を起こすのを避けるため、仏教寺院を民衆から引き離して、民衆を支配するための道具にしようとします。そのために作った制度が、「本山末寺制度」と「寺請け制度」です。
 「本山末寺制度」は、各宗派の本山を定めてその他を末寺として寺院の支配体系を作り、それを通じて寺院制度全体を幕府が支配するという目的で作られました。寺の建立を制限したり僧侶の教育にも規則は及びました。
 また、幕府はキリシタンを排除するために「寺請け制度」を作りました。誰もがどこかの寺(檀那寺)に所属させ、寺は「宗旨人別帳」(戸籍)をつくり、それらの人々がキリシタンではないことを証明しました(寺請証文)。人々はこの寺請け証文が無ければ、旅行や結婚、引越しはては葬儀さえ出せなくなりました。やがて1637年に起こった天草・島原の乱をきっかけに、寺請け制度は強化されていきます。徹底したキリスト教徒弾圧制作(宗門改め)や隠れキリシタンのことははよく知られているところです。
 
 (10)江戸時代 3.葬式仏教の完成
 寺請け制度が作られたころは、ふつう庶民は葬儀らしい葬儀をしませんでした。しかし、寺請け制度が強化されるにしたがって、寺院の葬儀に関する力が強化され、ついには檀寺の住職が葬儀を強要する事態となりました。寺院側は「宗門檀那請合之掟」を偽作し、葬儀への寺院の関与を強化しようとします。偽作とは知らない檀家は、「宗門檀那請合之掟」によって、人が死ぬと檀那寺がそれを検分し、キリシタンでないことを証明した後、戒名を授け葬儀を行うことがが義務付けられました(と思い込んでしまいました)。
 このときに定められた寺による葬儀は基本的には現代にまで引き継がれています。葬儀に際しては、引導を渡した寺への謝礼、湯かんや葬列を取り仕切った寺への謝礼、戒名代、通夜や法要の謝礼など寺院への支払いが必要となりました。
 これにより檀寺制度が完成し、葬儀のやり方と、その葬儀によって末寺は檀家から、本山は末寺から安定的な収入を得るというシステムが作り上げられました。これらはほころびを見せながらも今に至っています。
 また、この時代には葬儀にとって重要な書物が出されます。浄土宗の僧侶である感蓮社報譽が書いた「無縁慈悲集」がそれです。「無縁慈悲集」は「往生要集」と並んで日本の葬儀に大きな指針を与えました。「無縁慈悲集」は葬儀の細部にわたって事細かに、仏式葬儀の手引きをしています。

 (11) 明治維新 神葬祭と仏式葬儀
 維新政府は、神道の国教化をすすめ、反仏教政策を採ります。1868年神仏分離令は、神社から仏教色を排除しようとするものでしたが、いわゆる「廃仏毀釈運動」を引き起こし、全国的な寺院破壊につながっていきます。幕府による庇護の下権力をむさぼってきた寺に対する社会の反感がこれを支えました。1872年には神官が氏子の葬儀を行うことが認められ、神葬祭墓地も都内各地につくられました。
 1873年には神道国教化政策にのっとり、火葬禁止令が出されました。「火葬は仏教徒のもので、火葬は残虐のきわみである」というのが理由でした。しかし火葬禁止令は発令後2年後には取り消されます。墓地不足などの理由があったのでしょうが、明治政府の朝礼暮改振りがうかがえます。
 しかしこのころ出された(1874年)「墓地及埋葬取締規則」によって、墓地以外への埋葬が禁止され、日本の墓地や埋葬に関する習俗に大きく影響を与えていくこととなりました。
 一時は維新政府の保護の下、神葬祭が多くおこなわれるようになりましたが、それも1882年神官教導職分離令が出されたのを契機に、下火になりました。

 以上でおよその日本の葬儀の変遷や今に至る葬儀の様式・形式の由来を見てきましたが、さらに、さまざまな葬儀にまつわる事柄についてさらに加筆する予定です。



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