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NPO 家族葬の会 TOPコラム目次>河嶋の日記


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 鉢呂大臣の辞任

就任したばかりの、鉢呂大臣が早速辞任しました。理由は、@福島の原発周辺を「死の町」と表現したことと、A自分の腕をぶら下がりの記者の腕にこすりつけるしぐさをしながら、「放射能をつけちゃうぞ」と発言した、この2つが辞任の理由だそうです。
こんなことで、大臣を辞任させましたが、それでいいのでしょうか。少し考えて見ます。メディアは2つの問題の軽重を論じることなく、時系列的に問題を取り上げ、責任を追及します。「つけちゃうぞ」のほうは、ただのじゃれあい(あるいは失言)を取り上げた記者が、真意を確かめたり、正したりせずに、(いつもそうするように)自分に都合よく記事にしただけとしか思えません。記事によると朝日編集者は、ぶら下がり取材は自由で「扱いについて特段のルールはない」と発言しています。それで記者は社会人としての責任を果たしていると言えるのでしょうか。
また、「死のまちと表現」と言う表現も、同じことを感じてしまいます。発言の全体は、「残念ながら市街地はひとっ子一人いない。まさに死の町という形だった」と言う発言でした。このどこが問題なのでしょうか。原発被災地に入って、大臣としてまた人間としての感想が、この言葉から率直に感じられます。記事の一部だけを取り出して悪人を作り出す手法は、かつての「赤狩り」でマッカーシーが写真の一部だけを取り出して政治家などを追放した手法と代わりはありません。相手の失言をとらえ、暗闇から石を投げて平然としている今の社会の風潮に乗って、悪乗りするマスコミのふがいなさ感じざるを得ません。
(2011.9.14)

 霊安室

霊安室

先日の新聞に、新しく建設した総合病院の最上階に霊安室作った、と言う記事が出ていました。病院の一番いい場所だからとか、天国に近いところだからといった説明がされていたように思います。
霊安室については、葬儀屋として病院に行ったときに思わされることがいろいろとあります。先ず、どの病院でも霊安室は地下にあります。車で建物の外側から行くと、薬品の搬入口や調理室、洗濯室などを通り抜けた奥にたいてい霊安室があります。その意味で、霊安室を明るい最上階に作ったというのは画期的です。とくに、古い病院では霊安室は冷遇されています。たいていは暗くて殺風景な地下の小さな一室が霊安室で、中を通っていくとたいてい検査室などが並んだ奥にあります。患者の目を避けて病室から霊安室までいけるように配慮されています。多くの病院では、霊安室から車で移動するときに外部の目に触れさせたくないにのか、棺に入れずに搬出するよう求められます。一番驚いたのは、地下の霊安室から搬出するときにごみを含む雑物を運ぶエレベーターで1回に上げている病院があったことです。さすがに、霊安室から車に乗せてしまうまで遺族の目を遮断していましたが、都内のど真ん中にある病院で、場所もなく改善には多額の費用がかかるでしょうから、それでもやむ得ないのかな、と思いました。病院は、治療中に全力を尽くすのが一番大切なことですから、最上階の霊安室のように必要以上の気を使うのには妙に気になってしまいました。
(2011.9.13)

 「余談」−ウサイン・ボルト

ウサイン・ボルト

ウサイン・ボルト選手の出場した世界選手権200M決勝をテレビで見ました。レースそのものは予想通り彼の圧勝で終わり、接線から生まれる興奮と感動からはほど遠いものでした。直線に入った辺りからは圧勝が確信される安定したレース振りでした。他の選手との実力の違いを見せ付けた結果でしょう。
私が感動したのは、彼の態度でした。100Mでフライイングで失格したときの彼を見て、多分200Mは大丈夫と思いましたが、予想通りでした。と言うのは、失格後の彼は、私から見て非常に冷静で、後に失敗を引きずる雰囲気がなかったからです。もちろん心に動揺がなかったわけはないでしょうが、少なくとも観客やマスコミを気遣って平静に装う心を持っていました。平常心を失ってしまうと、平静を装うことが出来なくなるのが人間です。
200M優勝後の彼のコメントは、「100メートルのことをファンに謝りたくて一生懸命走ったよ」と言うものでした。テレビを通してみた彼の表情からも、コメントどおり周りを気遣う雰囲気が感じられました。100Mの失格がなければこんなウサインボルトを見ることが出来なかったかもしれません。そう思うと、失格も私にとってはいいことだったかもしれません。


懺悔−2

1944年の年の暮は、アメリカ軍による阪神工業地帯への爆撃が最も激しいときだったようです。母は大きなお腹を抱えて、裏の山の中腹にあった防空壕へ逃げたそうです。山の中腹からは大阪湾が一望できますから、神戸から大阪湾を挟んだ堺のあたりまでが火に包まれているようすが見渡せたそうです。それは美しかったと後になって母から聞かされました。そんな表現はどうかと思いますが、多分花火などでは到底見ることが出来ないような光景であったろうとは思います。
物心ついた時には、工場地帯からは離れていたためさいわい焼けずにすんだ我が家の周りから、坂を下って海に近づいて歩くと、辺り一帯はまだ瓦礫の山でした。焼夷弾の弾痕の残るコンクリート舗装の道路を下って通った小学校は、空襲を避けるため墨を流した校舎でした。夕方などは大きなお化け屋敷のように見えたことを覚えています。

懺悔−1

私が生まれたのは1944年の年の暮れでした。戦争も末期で、母に聞いたところによれば、連日の空襲で町はすっかり焼きつくされていたそうです。生まれた神戸は、当時で言う軍需物資の一台生産地で、三菱重工や川崎重工、神戸製鋼などの工場群が立ち並んでいました。また、当時神戸港は日本で一番の港湾施設を持つァでした。ァには軍需物資を備蓄する倉庫軍が立ち並んでいました。アメリカ軍の空爆の標的になったのは当然でした。た。また、神戸は阪神工業地帯の重要な生産拠点でした。大阪湾に面した阪神工業地帯は、大阪府堺市から兵庫県明石市に至る大きな工業地帯で、関東の京浜工業地帯に匹敵する大きさを持った工業地帯でした。当時の住居は神戸市の北側にある摩耶のふもと近くにありました。神戸市の東側は、海岸線からおよそ2キロ程度で六甲山系に至ります。したがって山すその我が家から見ると工業地帯はいわば指呼の間にあるというわけです。しかも、海岸線は六甲山系の山すそという形になっていて、ずっと坂道が続きます。山近くに住んでいた人たちは、空襲と言うと山に掘ってある防空壕に逃げ込んだそうです。子供のときにそんな防空壕に入って遊んだ覚えがあります。防空壕のあたりからは、大阪湾とそれを取り囲む町がよく見渡せました。

続く
(2011年8月27日)

 「余談」−懺悔(前置き) 

懺悔-前置き
私は、60年余りの人生を生きてきました。最近思い浮かぶことと言えば、過去の恥ずかしい出来事(もちろん自分のしたことです)ばかりです。気がつくと、そんな自分の恥を思い出して、弁解や謝罪の言葉を一人でぶつぶつとつぶやいている自分に気づくことが時々あります。老人の独り言と言うやつでしょうか。私としてはそんなつらかった思い出を早く忘れてしまいたいのですが、思うようにはなりません。
そこで、この場を借りて恥ずかしかった思い出を告白してしまうjことによって、そんな過去を葬り去ってしまいたいと思っています。さいわい、このページを読む人はまずいないでしょうから、世間に自分の恥を告白しても誰にも分からないと思います。それをいいことに、ここでの懺悔をもって罪の償いにしてしまおうと言うわけです。一応、世間に読まれるかもしれないという可能性があり、その限りで告白とか懺悔とかと呼べる体裁だけはつくろえると言うわけです。心の準備がありますので、中身には次回から入らせていただきます。
続く
(2011年8月25日)

 「私観・葬儀の歴史(13)」 −NPO家族葬の会

最初のお葬式−12
私は、厳密には宗教と呼べるようなものではなかったにしてもその1歩手前の状態にすでにあったと思っています。教祖や体系的な教義、教会や寺などの宗教施設は無くても、人々の心の中には未知の物への恐怖心やそれを敬う心など後に宗教に発展するための全ての要素が出来上がっていたのではないでしょうか。
私達日本人のの祖先も少なくともおよそ3万年前には日本列島に到着して生活を始めていたはずです。いわゆる旧石器時代の始まりです。近年、日本列島の旧石器時代の遺跡が次々と発掘されています。これらの遺跡には、宗教的な遺物が当然含まれているはずで、日本人の精神世界の一端を覗くことができるようになるのも近いかもしれません。この世界に文字が発明されて7000年程度と見られていますが、日本人が文字を使うようになるのは、どうさかのぼっても2000年程度です。記録上には残っていませんが、言語が発生したのは100万年以上前のこととされていますし、私達の祖先がアフリカを出た5万年前には、充分意思の疎通を出来る程度にまで発達していてのではないでしょうか。彼らの1派が日本に1〜2万年かけて到着してくるまでには、幾多の困難を乗り越えてきたはずですから、言葉も必要に迫られて大きな進歩をしてきてはずです。それと同時に、具体的な事象を指し示すだけではなく抽象的な概念を意味する言葉も発達し、宗教的な内容を持つ言葉さえすでに出来上がりつつあったはずです。
続く
(2011年8月24日)

 「私観・葬儀の歴史(12)」 −NPO家族葬の会

最初のお葬式−11

私達の祖先がアフリカを出たときには、すでに社会の最小単位である家族はもちろん狩など生存のための共同行動をとる集団が出来ていたはずです。そうでなければ、東アフリカの豊かな大地溝帯を捨て(追われ)新天地を目指すことなど出来なかったはずです。また、彼らは共通の言語を持ち統率のために共通の神を持っていたことでしょう。小さな集団が未知の土地で暮らすために大移動をしなければならないのですから、その恐れも小さくは無かったはずです。狩の時などに家族や仲間を失った経験は、死への恐怖と死後の安寧を祈ることを彼らに教えていたはずです。それらはまた、大自然の豊かさや凶暴さに対して敬虔な気持ちを持たせ、どこにでもあったような自然崇拝的な一種の宗教のようなものも人々の間には芽生えていたはずです。もちろん教祖や経典があるわけではありませんから宗教とはいえませんが、宗教にとって一番大切な敬虔な気持ちというものはもっていたことでしょう。
さらに一歩進んで、集団の構成員の共通の宗教的シンボルやシャーマンのような存在もいたのではないでしょうか。

続く
(2011年8月21日)

 「私観・葬儀の歴史(11)」 −NPO家族葬の会

最初のお葬式−10

さて、私達の祖先がアフリカを出たとき、一人ひとりが自分の判断で行動したのでしょうか。私はそうは思いません。すでに誰か有力者に率いられて集団でアフリカを出たに違いありません。肉食獣や他の人間に襲われて、食料にされてしまうかもしれません。ホモサピエンス自身ももちろん他の動物や他の集団を食料としていたはずです。
私達の祖先である
ホモ・サピエンスがアフリカを出たときにはすでに集団行動をしていたと思います。簡単であっても言葉を持ち、統率の取れた行動で獲物を捕らえたに違いありません。
つまり、同じ言葉を持ち、同じ概念を持つ社会を形成していたたはずで、仲間に対する意識や共感・同情といった者も持っていたと想像します。ネアンデルタール人が死者を弔ったとすれば、私達の祖先がそうしなかったはずはありません。
私達の祖先がアフリカを出て2万年後ぐらいには、ホモサピエンスは世界中に広まっていたはずです。先にアフリカを出ていたネアンデルタール人などを殺戮しつくしと言われていますが、食料にするために殺したと思われています。
余談ですが、現代人のDNAにはネアンデルタール人の痕跡は無いそうです。同時代に生きていたはずですから混血が出来ていてもいいはずだと普通は思いますが、違うようです。出会っても性的な交渉は無く、共通の子孫を残しませんでした。
大きななぞです。

続く
(2011年8月20日)

 「私観・葬儀の歴史(10)」 −NPO家族葬の会

最初のお葬式−9

私達の祖先であるホモ・サピエンスは、ネアンデルタール人にかなり遅れて56万年前にアフリカを出たようです。このときアフリカに残ったホモサピエンスは、現在のアフリカ人(ネグロイド)の直接の祖先です。さて、アフリカを出た私達の祖先はアラビア半島を南下して、インドを経由してオーストラリア大陸に至ったグループもいました(アボリジニの祖先この人たちはおそらくネグロイドなのでしょう。)別のグループは一旦中央アジアに落ち着きそれから二手に分かれていきました。東へ向かったのは、いわゆるモンゴロイド(黄色人種)で、この人たちこそが私達日本人の祖先です。西に向かったのはヨーロッパ人の祖先で、いわゆるコーカソイド(白色人種)です。もとは黒人の風貌だったはずですから、環境が異なれば人は変わるものです。私の大学時代の人類学の先生だった東京大学の鈴木尚先生から「白人から黒人へは(その逆も)1万年で変わる」と教えられました。

続く
(2011年8月19日)

 「私観・葬儀の歴史(9)」 −NPO家族葬の会

最初のお葬式−8

人類は数百年前に誕生してから、何回も誕生の地アフリカを出たようです。私達の直接の祖先もまたアフリカを出て世界に散らばりました。私達の祖先の」にネアンデルタール人がアフリカを出て主に中近東からヨーロッパにかけて生活をしていたようです。私達の祖先は10〜5万年」にアフリカを出て一旦中央アジアに落ち着きそれからワと東に分かれて移動したそうです。(もちろんそこにとどまって人たちもいたでしょう。)ネアンデルタール人は数万年前に姿を消しました。DNA鑑定によれば現代人にはネアンデルタール人の痕跡は無いそうですから、同時代に同じ地域に住んでいたはずの私達の祖先とは子孫を残さなかった(残せなかった?)ことはあきらかです。
多分私達の祖先の食料として殺されつくしたのかもしれません。
そのネアンデルタール人が仲間の遺体を葬り、花を手向けたらしい痕跡があると言うことは、やはり彼らも人間として死を恐れ、魂の平安を祈ったのでしょう。

続く
(2011年8月13日)

 「勇気をもらう。勇気を与える」 −NPO家族葬の会

震災後流行している言葉

当方を襲った大震災のあと、テレビを回すとどのチャンネルでも「被災者に勇気をもらった」、「被災者に勇気を与えた」という意味の言葉が、大安売りです。確かに、被災者が一生懸命に現在の状況に耐えている姿には、人の心を打つ物があります。その姿を見て、自分を省みるきっかけになることは当然あるでしょう。しかしそのようなことは、今回の被災者を見なくてもいくらでもあることです。災難を経験した人のつらさは、簡単に他人が味わったり理解することなど出来ないはずです。もしもことの大きさに圧倒されたのならば、先ず冷静にそれを受け止め、もっと自分の内側で反芻することが必要なのではないでしょうか。街頭で募金活動をする高校生の姿を見ていると、まず自分の持ち物を差し出し、次に自分がアルバイトでもして働いて得たお金差し出すべきなのではないでしょうか。他人のお金を集めて被災者に送ろうと言うのは、高校生のすることではないと思いますが、いかがでしょう。
大きな声を出して救援活動をすることで、免罪符にしようとでも言うのでしょうか。私は不快に感じてしまいます。


(2011年8月16日)

 「私観・葬儀の歴史(8)」 −NPO家族葬の会

最初のお葬式−7

ここから宗教も始まったのだと思います。もちろん、はじめは宗教としての体裁が整った物ではなかったでしょう。教義や経典も無かったのはいうまでもありません。第一、文字はもちろん無く、言葉も抽象的な内容を表すには不十分だったはずです。それでも、死と言う恐怖を認識したのは間違いありませんし、死者の魂を慰め、家族のしを悲しんだに違いありません。そして、理解できない物への恐怖は宗教的な心を作り出したのも当然でしょう。死への恐怖は同時に魂の救済の方法を考え出す契機であったはずですし、多くの畏敬すべき自然を祈りの対象へ発展させることも多かったはずです。ここに、宗教の萌芽があったに違いありません。原始的な宗教の第一歩です。
このようにしておそらく宗教(心)と葬儀とはほとんど同時に発生したはずです。

続く
(2011年8月15日)

 「私観・葬儀の歴史(7)」 −NPO家族葬の会

最初のお葬式−6

人類は数百年前に誕生してから、何回も誕生の地アフリカを出たようです。私達の直接の祖先もまたアフリカを出て世界に散らばりました。私達の祖先の」にネアンデルタール人がアフリカを出て主に中近東からヨーロッパにかけて生活をしていたようです。私達の祖先は10〜5万年」にアフリカを出ました。それはまさに、ネアンデルタール人が死者の枕元に花束を置いて死者を弔った時期に当たります。一旦中央アジアに落ち着きそれからワと東に分かれて移動したそうです。(もちろんそこにとどまって人たちもいたでしょう。)ネアンデルタール人は数万年前に姿を消しました。DNA鑑定によれば現代人にはネアンデルタール人の痕跡は無いそうですから、同時代に同じ地域に住んでいたはずの私達の祖先とは子孫を残さなかった(残せなかった?)ことはあきらかです。
多分私達の祖先の食料として殺されつくしたのかもしれません。
そのネアンデルタール人が仲間の遺体を葬り、花を手向けたらしい痕跡があると言うことは、やはり彼らも人間として死を恐れ、魂の平安を祈ったのでしょう。

続く
(2011年8月13日)

 「私観・葬儀の歴史(6)」 −NPO家族葬の会

最初のお葬式−6

人類は、他者の死を見て自分もいずれああなるのだと考えるところから、お葬式が始まったのだと思います。(いや、宗教もそうではないかと思います。)他者の死を自分の未来姿だと知ったとき、人は恐怖を感じます。死ねば何も無くなるのか。その恐怖に耐えるため、天国(の様なもの)を考え出し、死んだ他者をそこへ送り出すためにその魂を鎮め祈ったのではないでしょうか。祈りの半分は死んだ他者の魂のため、残りの半分は自分の魂のために。このことが、人間にだけ葬儀があることの理由ではないでしょうか。
人間は、他者の死を自分の物としてとらえることができるようになり、初めて死の真相に迫っていく抽象的な観念的作業を始めることによってはじめて、本格的に抽象的な思考を発展させる端緒にたどり着いたと言えるのではないでしょうか。死への恐怖こそが、その後の人間の哲学的発展の大きな柱であったことは言うまでもありませんが、その死幸の深さはともかく、私達人類は常に死と向き合って、死とともに生きてきました。そして同じ意味で、宗教や宗教的儀式としての葬儀も同様です。

続く
(2011年8月12日)

 「私観・葬儀の歴史(5)」 −NPO家族葬の会

最初のお葬式−5

他者の死を見て自分の未来姿だと理解することは、人間以外の動物は出来ないと思います。たとえば子供の死を前にして、呆然とする母親の姿を映像で見ることはありますが、子供の死を悲しんではいても、自分もいずれは死ぬと考えているとは思えません。また、襲われたときに苦痛から逃れるためか死から逃れるためかの判別は出来ないと思いますが、少なくとも他者の死から自分の死を類推しているとは思えません。仲間がライオンに襲われているときにそれを助けようとする仲間の反撃をこれも映像で見ましたが、その様子からは自分の将来を考えていた様子は伺えませんでした。多くの動物(たとえば猫)が、自分の死を予感して、人知れず死ぬための準備をするのはよく知られていますが、それとて誰かの死を見て自分もそうなると考えてのこととは思えません。
つまり、人間以外の動物は他者の死を見て、自分の将来姿を連想することは無いのだと思います。

続く
(2011年8月11日)

 「私観・葬儀の歴史(4)」 −NPO家族葬の会

最初のお葬式−3
この問題は、人とは何者かと言うことと深くかかわっていると思います。人は何によって他の動物と違うのかと言うことを私が教えられた時に言われたのは、たとえば二足歩行という猿とは違う身体的な側面についてでした。二足歩行によって両手が自由になり、生活や脳が大きく進歩したと言うようなことでした。確かにそれはそのとおりでしょう。
しかしそれと同時に、人を人たらしめたのは、抽象的思考だと思います。権力や社会、人間関係について本能的な行動をするだけではなく、抽象的な思考によって直面する問題を解決しようとしたと思います。これは、動物が身を守るために集団を作って狼のようにリーダーの命令で行動すると言うような物ではありません。本能の積み重ねによって獲得する知恵ではなく、抽象的な思考によって獲得した知恵は、大量の蓄積によって、人間の生活の進歩をもたらしてきました。
抽象的な思考の中でも重要なことのひとつに、他人の死を見て自分の死を予感するということがあるのではないかと思います。
続く
(2011年8月9日)

 「私観・葬儀の歴史(3)」 −NPO家族葬の会

最初のお葬式−2
私がここで言いたいのは、お葬式というのは相当に古い起源を持っているのではないかと言うことです。最初のころは葬儀といえるようなものであったかといえば、そんな物ではなかったと思います。ですから、宗教的儀式を連想させる葬儀という言葉をここでは使いません。単に「お葬式」と呼んで、「人が死んだことに対する悲しみや鎮魂の気持ちの表現」と定義づけておきます。
さて、歴史的な順序や具体的な内容を別にして、お葬式はどのようにして始まったのでしょうか。言うまでも無く「他人の死を悲しい」と思ったり、「死んだ人が安らかであってほしい」などと思うところから始まっていると考えるのが自然でしょう。
私は、このあたりをもう1歩だけ、掘り下げたいと思います。(このあたりになると、世の中では当たり前のことと考えられているのが普通のようで、あまり聞こえてはきません。まあ、いわば安物のオリジナルと言うところでしょうか。大胆な考えに取り合ってもらえないとは思いますが、付き合っていただけるとありがたいのですが・・・)
続く
(2011年8月8日)

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 「私観・葬儀の歴史(2)」 −NPO家族葬の会

最初のお葬式−1
最初にお葬式が行われたのは何時かとかどこで行われたかと言うようなことは、。当然ながら分かっていません。推測として言われているのは、イラク北部のシャニダール洞窟で、およそ5〜7万年前にネアンデルタール人が遺体の枕元に花を手向けた形跡が確認されているのが最初のお葬式ではないかといわれています。もっとも化石化した遺体に添えられていたとされる化石化した花粉は、風が運んできた物だと言う意見やそれにしては特定の花の花粉に偏っているのでやはり意図的に供えられたものだなど諸説があり、定まっていません。
もちろんここで私は、考古学的な検証に対する議論を展開するつもりはありません。次回ではなぜこんな話をしようとするのかを述べていきます。
続く
(2011年8月7日)

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 「私観・葬儀の歴史(1)」 −NPO家族葬の会

前書き
本来葬儀の歴史は、民俗学者の仕事です。私は民俗学者ではありませんし、歴史学者でも宗教学者でもありません。その私が葬儀の歴史についてのメモを作り、私なりに葬儀について改めて考えをまとめてみようと思ったのは、いまの時代の葬儀の大きな変化が、いったい何に由来するのか、今後どうなっていくのかと言うことを、考える必要があると思ったからです。多くの宗教家や葬儀の評論家などが、この間の葬儀の変化について語っています。しかし、失礼ながら、本格的な議論や立論がなされてきているようには思えません。歴史的な検証や人間の心理の変遷・成り立ちをより明確にしながら、これからの葬儀の指針を作り上げていく作業が必要なのではないでしょうか。
申し上げたように、私は学者ではありませんから、話に筋道が通っていないことも多いはずですし、述べる事柄の多くは私の思い込みに過ぎないことも多々あると思います。それでも私は自分のためにこの作業を行うつもりです。
もしどなたかがこのブログを読んでくださって、感想や御意見をいただけると、それに優る喜びはありません。
次回以降に、本論に入らせていただきます。
(2011年8月6日)

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 「消えてしまいたい」 

2009年の読売新聞に掲載された今でも忘れることが出来ない記事を取り上げさせていただきます。
「葬式をすることで親族や他人の時間を拘束したくない。誰にも迷惑をかけないで、消えるように死にたい」という女性を紹介し、直葬(あるいは火葬式)の増加を報じています。いまや65歳以上の一人暮らしは414万人にのぼり、多くが世間とのかかわりを希薄にしています。また、死亡者の5割以上は80歳以上の人たちで、こうした人たちは葬儀も簡素にする傾向が強くなるのは当然です。
葬送ジャーナリストの碑文谷さんの「人間関係や親子関係の希薄化が直葬を増やしている部分もある。それは死者や命の尊厳になるのだろうか」という言葉を紹介しています。たしかに現在の風潮には、死(同時に生も)や死者の尊厳を損なうのではないかという危うさを感じずに入られません。
しかし、よく考えてみると、これはあくまでも送る側の心の問題です。盛大なお葬式をすれば死者の尊厳をを本当の意味で大切にしているかというとそれは別問題ではないでしょうか。簡素であってもたとえ時間が短くとも、もしっかりとお別れをすることができますし、そのことが故人の尊厳を大切にすることなのではないでしょうか。
直葬を選択する人には、それでいいのだと考えてそうする人もいれば、経済的な事情でやむなく直葬を選択せざるをえない人もいるでしょう。その人たちの心の中を推し量ることは出来ません。
碑文谷さんが心配するべきなのは、むしろ生きているときの人間関係や親子関係の問題ではないでしょうか。

(2011年8月5日)

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