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コラム

2011年8月30日 火曜日

ディープインパクト(1)

サッカーのことを書いてきましたが、私が最も好きな観戦スポーツは、文句なくラグビーです。2番目に好きなのは競馬です。今回は、デープインパクトについて書かせていただきます。
デープインパクトで思い出すのは、何といっても凱旋門賞での敗戦です。競馬は勝負事ですから、勝ち負けは時の運で決まる要素があります。実力ナンバーワンでもちょっとしたハプニングで負けることもあります。馬の実力を現しているレーティングで大きな差をつけられている馬が、レーティングがずっと上の馬を簡単に任してしまうことがしばしば起こります。人々はそうした番狂わせを目にして、「大駆」としばしば言います。生涯たった1回の疾走というわけです。その後は大駆の前の平凡な馬に戻ってしまって、凡走を繰り返し様なケースです。
これに対して、そのレース以降本当に強い馬としての実力を発揮し続けることもあります。正直に言えば、その馬の実力を見誤っていたと言うわけです。わたし自身も何度もそんなことを経験しています。一番強烈だったのは、ジャパンカップを勝った時のカツラギエースでした。そのレースの1番人気は、いまをときめくミスターシービーでした。
続く

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2011年8月29日 月曜日

諱(いみな)と戒名

諱(いみな)とは号(呼称)のことを言います。中国や日本などで,生前の実名をいう。死後、後には生前から、実名を忌んで口にしない風習から生じました。諱にかわって、生前の生活で普通に使われたのが「字(あざな)」です。そして、死んでからおくられたのが「諡名(おくりな)」です。つまり、生きている間は諱と字が、死んでからは諱と諡名(がその人を表すというわけです。中国の古典などで出てくる人物には、諱・字・諡号の3点が名前として表記されるのが普通です。日本でもこのような考え方の影響でか、実名のほかに幼名とか通り名(字・ニュックネームに近い)を使っていました。
戒名は、仏教が中国に伝えられてから、中国の号の風習に習って諡号(おくり名)の1種としてつけられるようになったようです。但し、生前に受戒して仏門に入ってから戒名を授けられるのが普通でした。今では、逆で死んでから受戒して戒名を授けられます。

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2011年8月26日 金曜日

夢と現実(2)

人生と言うのは、夢を持ち続けることが出来る物でしょうか。私はそうは思いません。イチローや松井秀樹ですら、子供のときに抱いた夢を持ち続けることができなくなるのが普通です。普通の人間にとって、夢とは「いつか(それも多くの場合近々」分かれなければならないものです。たとえば、プロ野球選手になる夢を持っていた少年のほとんどは、進学や就職に際して夢と別れることになるのが普通です。自分の能力や環境を的確に把握し、もっと地道な進路に変更します。昔は、大学に行きたかったのに親の資力が不足していたために、それを果たせなかった人がたくさんいました(今でも)。
夢を持ち続けることの価値は、夢を持ち続けた人だけが持てる(分る)」と言うごく当たり前の結論に達してしまいます。イチローになる夢をあきらめず、努力を続けた人だけが、世界中に数人しかいない人間になれるのです。見方を変えれば、夢を持ち続けることの意味はトッププロを作るという点で意味があることです。たとえば、プロ野球界にとって無くてはならないスター選手を作るという意味で、存在価値があります。また、簡単に目標を投げ出してしまわず、努力をするべきだという点では、夢を持つことは、どんな人生にも意味があることです。
では、夢を持ち続けることが出来なかった人の人生は、夢を持ち続けた人の人生に比べて、劣ったところがあるのでしょうか。人生の価値はいったいどこにあるのでしょうか。「

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2011年8月24日 水曜日

夢と現実(1)

私は夢を持つことに反対しているのでは決してありません。そしてイチローや松井選手が夢を持ち続けることの大切さを子供達に伝えることの大切さも理解しているつもりです。しかし、人間夢をあきらめることも大切です。「夢をあきらめるな」と言うのが最近の流行語のようですが、ただの野球馬鹿になることを奨励しているようで、やり切れません。野球馬鹿が賞賛されるのは、何らかの意味で彼が成功した場合だけです。たとえプロ野球選手として成功して40歳まで現役を続けたとしても、その後の現実はどうなっているのでしょうか。指導者になれるのはの一部ですから、ためたお金で生涯をすごすのでしょうか。野球人生に比べて引退後の人生はずっと長いのです。
夢を持ち続けろ、夢をあきらめるなと言う言葉を馬鹿正直に受け止めすぎていると言う言葉が聞こえてきそうですが、それならば誤解を受けないようにもっと適切な言葉を伝えるべきではないでしょうか。
何しろ日本人は、世界を相手にして戦争に勝てると言う言葉を信じ込んで、陸軍の後押しに狂奔した前科があるのですから。

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2011年8月23日 火曜日

夢を持つ

最近よく、「夢を持ち続ける」とか「あきらめない」と言う言葉を聞きます。イチロー選手や松井選手が「夢を持ち続けて、練習を続ければ、夢がかなう」と子供達に言っているのを見ると複雑な気持ちになります。子供達がみな夢を持ち続けて野球の練習をしたらどうなるのでしょうか。
イチローや松井のようになれるのは、たくさんの「夢を持ち続けた」子供達の内でもほんの一握りに過ぎません。もちろん夢を持ち続けなければイチローや松井になれないのは当然でしょうが、夢を持ち続けただけで彼らのようになれるわけではありません。
たぶん体力、運動神経、環境、よき指導者そしていわゆる夢をあきらめない根性などがそろってはじめて、一流選手になれるのではないでしょうか。多くの子供にはそれらの内のどれかがかけていて、好きでも必死に練習しても、たとえばプロ野球選手やプロサッカー選手にはなれません。
同級生にも必死で努力しても高校野球のレギュラーメンバーになれなかった友人がいました。学校時代にはそれしかなかったと言ってもいいと思います。彼が単にそれが好きで野球に生活の全てを捧げていたのだとしたら、それはそれでよかったと思います。弱小チームでいくらがんばってみても、しかもそこでレギュラーにもなれなかったのですから、プロ野球選手への夢などもっていなかったはずですから。
しかし、単に好きで(大好きな趣味・遊びとして)野球をやっていたのだとすれば、それで学生としてよかったのでしょうか。彼はすでに我慢することを学ばなければならない年だったのではないでしょうか。

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2011年8月21日 日曜日

サッカー観戦と私-釜本邦茂

1963年には、まさにサッカー界の実力の移り変わりの時期に早稲田と言う得意なチームが存在した年でした。いや、早稲田と言うより不世出の天才釜本邦茂が早稲田大学に入学した年でした。(ちなみに、かくいう私も同じ年に早稲田大学に入学しました。関係ありませんがあの吉永小百合嬢が第二文学部に入学されたのもこの年のことです。)
1960年京都府立山城高校に入学した釜本は、すぐに全国にその名をとどろかせる存在になりました。高校時代の華々しい活躍は枚挙に暇がありませんが、すでに高校生として全日本メンバー入りかと噂されていました。(実は、私は釜本と同時代のユース選抜メンバーの数人の友人がいました。彼らから、とても高校生とは思えない釜本のサッカー以外の分野での行いの話しを聞いていました。今となっては、あれだけの体と運動能力を持っていればそれも当然かと思えますが、当時はとても驚いた物です。)
彼は早稲田に入学した翌年の1964年と1967年の2回、早稲田は天皇杯(日本選手権)で優勝しました。1964年には日立製作所(現柏レイソル)を1967年には東洋工業(現サンフレッチェ広島)を破ったものです。
この勝利を最後に、学生が日本選手権(天皇杯)を勝つことは無くなっています。実力が学生から社会人に動いていくときに最後っ屁のように、早稲田は釜本と言う怪物を擁して勝利を収めたのです。釜本の外にもこの時代には早稲田大学ア式蹴球部(早稲田ではサッカー部の正式名称をこういう)には、後のユース監督となった松本育夫、後の全本メンバーから全日本の監督になった森孝滋、山城高校時代からの釜本の同級生二村昭雄など葬送たるメンバーがいました。(ちなみに少し先輩に川渕三郎や鬼武といった人たちもいました。)
こうした優秀な部員がいたサッカー部でしたから、天皇杯2度優勝と言う釜本の輝かしい戦歴が、社会人優勢の時代に成し遂げられたのです。しかし何といっても釜本です。釜本と同時代に早稲田に在籍し(私はけっして早稲田が優秀ないい大学だとは思ってはいませんし、別に好きではありません。ただサッカーとラグビーが好きで当時の早稲田は両方とも実力と人気を兼ね備えていました。したがって、そこだけは好きだったと言っていいかもしれません。)、の釜本の試合を見ることが出来たことは、競馬ファンがシンボリルドルフやディープインパクトのレースを自分の目で見たのと同様の、死ぬまで語り続けるべき大変なよろこびでした。
釜本は、ストライカーとして日本が世界に誇ることの出来る最高の選手でした。「釜本の前に釜本無く、釜本の後に釜本なし」。

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2011年8月20日 土曜日

サッカー観戦と私ー朝日杯

つまり、1960年ごろのサッカー界は、ちょうどその実力の中心が学生から社会人へとうつっていく端境期にあったのです。この数年後の1963年には、日本のナンバー1チームは再び学生が取り戻し、5年間は学生と社会人が交互に全日本選手権を勝つ時代がきます。
さて、標題の朝日杯の話に戻りますが、試合は関学が善戦し、試合はこう着状態だったと記憶しています。そうした中、忘れられないシーンが発生しました。関学が古河からボールを奪い、継谷から右サイドを上がる志治に絶妙のパスが出ました。その瞬間、あの八重樫が頭の上で拝むようにしてボールを止めました。(「あの」と言ったのは、後のメキシコオリンピックで早稲田の釜本とコンビを組み銅メダルを獲得した、大センターフォワードだったからです。
いまなら1発退場になってもおかしくなかったプレーでしたが、当時のルールではただのフリーキックでした。しかし、八重樫の反則は強者にあるまじき行為であったことは言うまでも無く、私にはそのことだけが強く印象に残った試合でした。翌日の朝日新聞には、八重樫の反則を強く批判する記事が掲載されました。(これは朝日新聞だけが批判したと言う意味ではなく、朝日杯は朝日新聞の主催ゲームでしたから、朝日新聞しかこのゲームを取り上げなかったと言う意味です。)

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2011年8月18日 木曜日

サッカー観戦と私ー朝日杯

つまりこのころまでは、スポーツは学生が中心の時代でした。戦後の復興の中、いち早く復興したプロ野球を除いては、どのスポーツも学生が一番強く、社会人は学生スポーツ上がりが、理解のある企業に入ってそこで続けると言うのが普通でした。社会人チームニ所属しても仕事を続けながら、仕事を終えてから練習すると言うのが普通でした。野球以外にプロはいなかったのですから。
日本全体がとても貧しい時代でしたし、スポーツは企業の広告塔だというのが、クラブを所有する企業の考え方でした。この考え方はプロとして成立している野球ですら棄て切れてはいません。その他の野球以外のスポーツでは、仕事を早めに切り上げて練習をさせてもらえるだけでもありがたかったのです。
日本が戦後の復興を成し遂げ、経済的に余裕が出てきてはじめて企業も仕事から離れて選手達に練習させたり、グラウンドを整備するなどして自社の広告塔としての社会人スポーツに取り組み始めたのです。すでにプロや社会人野球が人気を博していた野球を除けば、その最初がサッカーでした。(日本のスポーツ界において野球が破格の存在であったかは言うまでもありませんでした。)学生のサッカーの花形たちが次々と社会人チームで活躍するようになりました。三菱重工、日立、東洋工業、八幡製鉄などが活躍しました。その中でも当時の古河電工は、1960年代のはじめには圧倒的な力を持ったチームだったのです。つづいて、バスケットボールやラグビーなどで、その実力の中心は学生から社会人へとうつっていきました。

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2011年8月16日 火曜日

サッカー観戦と私ー朝日杯

当時の古河電工は文句無く日本の最強チームでした。私がそのとき観戦した古河電工はスターター11人中9人までが代表選手だと聞かされました。すっかり忘れてしまいましたが、保坂、宮本(征)、川渕、渡辺、内野、八重樫などスター選手が目白押しでした(当時長沼はコーチだったか)。彼らの中には1968年のメキシコオリンピックのメンバーとして活躍した人もいました。対する関学は、継谷、志治の2枚看板で、関西学生リーグの常勝チームでした。継谷は後に社会人強豪の三菱重工に入り、日本代表選手としても活躍しました。志治も卒業後は地元のトヨタ自動車でプレーし、地味ながら代表も経験し、現役引退後にはトヨタの監督として活躍しました。
この1960年ごろは、サッカーは大きな変化の時期でした。それが象徴的に現れているのが、歴代の全日本選手権の優勝チームの名前です。1921年に始まった全日本選手権は、1960年にこの古河電工が優勝するまで、学生チームが勝ち続けていました。関西学院大学、早稲田、慶応大学などが常勝チームとして君臨し、古河電工が1960年、1961年と連覇を果たした後もしばらくの間は、学生と社会人が交互に優勝する並立時代が続きます。

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2011年8月15日 月曜日

サッカー観戦と私ー朝日杯

記憶違いでなければ1月の松の内、天気はよかったのですが寒い日でした。試合がおこなわれた西宮球技場は、当時は珍しい(多分他には神戸にあっただけではなかったかと思いますが)芝が張られた、サッカー専用の競技場でした。そのときスポーツの観戦席をなぜ「スタンド」と呼ぶのかを理解しました。西宮球技場には座席は無く、観客は全員段差のついた板の上に立って観戦をしていました。観客はおよそ300~500名ぐらい、関係者のほかには関学の学生と私を連れて行った父親のようなコアなファンだけでした。女性の観客はほとんどいなかったと思います。
話はそれますが、わたしの父親というのは御影師範を出て神戸で小学校の先生をしていました。御影師範時代はサッカー部に所属していたそうです。御影師範のサッカー部は親父の在籍していた昭和のはじめごろは結構強かったのだと言う自慢話を聞かされたことがあります。また、戦前のサッカー界で慶応大学が大変な強豪であった時代がありましたが、「あれは自分達がサッカーを教えた御影師範の付属小学校の子供達が慶応に進学して強くなったのだ」とも聞かされました。
一般の観客と言うのはそんな人たちが中心でしたから、応援も野太い声が飛び交うだけで、今のようにキャーなどという女性の声はもちろん聞こえてきませんでした。

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2011年8月14日 日曜日

サッカー観戦と私ー朝日杯

サッカーと私と言っても、もっぱら観戦についてです。私が多分はじめて大きなサッカーの試合を観戦したのは、15歳のころです。50年ぐらい前の当時、正月に朝日杯と言うのがおこなわれていました。私は学生ナンバーワンと社会人ナンバーワンが対戦するカップゲームだと思っていたのですが、どうもそうではなかったようです。最近朝日新聞の当時の記事を改めて調べたところ、チームの選考基準は必ずしも明確ではなく、なんとなく学生のトップクラスと社会人のトップクラスが対戦していたようです。
しかし試合は、継谷と志治を要する当時の学生ナンバーワンの関西学院と文句なしの社会人ナンバーワンチームの古河電工の対戦でした。当時の古河電工(ジェフ市原の前身)は、文句なしの日本のトップチームで、綺羅星のごとく輝くメンバーには、長沼などJリーグの重鎮などが顔をそろえていました。何とその11人のメンバーの内9人が代表チームのスターターでした。彼らは後のメキシコオリンピックで銅メダルを獲得した日本代表チームの主力選手達でした。

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2011年8月13日 土曜日

女子サッカーと女性サポーター(7)-NPO家族葬の会

女子サッカーが成長していくためには、コアなファンを多くと来ることと、コアなファンとはいえないまでも普通に女子サッカー観戦にスタンドまで足を運んで観戦するファンが必要です。そのためには関係者がなすべき努力は多いと思います。
しかし、このうち、コアなファンを作り出す努力の多くは、試合を提供する側により多くの責任があると言えます。サッカー協会や学校など教育界などがそうだと思います。
それに対して、その周辺に位置するファン達を増やすと言う点では、社会の女性達にも多くの責任があると思います。進んで女性スポーツを応援することによって、女性の社会的地位を向上させていくと言う責務があると思います。今の日本における女性の社会的地位は、けっして充分であるとはいえません。その原因は、女性達自身の努力によっていまの地位を築き上げてきた物とはいえないからではないでしょうか。
ここで取り上げてきた問題は、女子サッカーだけの問題ではなく、日本の女性達が引きずっている女性の地位の低い社会の遺物であると思います。この問題に女性達が取り組むことは、女性の地位の向上にとどまらず、これからの日本が乗り越えていかなければならない、異種文化との共生という大問題の解決につながるかもしれないからです。

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2011年8月12日 金曜日

女子サッカーと女性サポーター(6)-NPO家族葬の会

男子のJリーグの観客を見ると、女性サポーターが大勢います。彼女達の熱心なサポーター振りを見ていると、なぜ女子リーグのサポーターではないのかと疑問を持ってしまいます。もし、なぜ女子リーグのサポーターではなくJリーグのサポーターなのかと聞けば、「スピードが違う。強さが違う」と言う答えが返ってくることでしょう。
彼女達は、スピードと強さだけを絶対視する、自分が経験できない男性スポーツへの憧れを持った、なりたくてもなれない男性への夢を持った女性サポーターなのでしょうか。
このような女性たちは日本には大勢います。どの分野においてもです。たとえば一番問題なのは、政治です。なぜ女性は女性政治家をサポートしないのでしょうか。いやしてはいるのですが、もっと政治の分野における女性を評価するべきです。たとえば女性の参政権は、日本では占領軍から与えられた物ですが、欧米ではすでに参政権を持っていました。いや持っていたというよりは女性達が勝ち取っていました。日本では単に与えられた物に過ぎず、一部の女性達がそのための運動をおこなってはいましたが、むしろ女性達はそれを受け入れられずにいました。いまも日本の女性達はそれを持っていることを自覚できずにいます。
その点では、いまだに意識の多くの点で、女性は男性の付属物に過ぎません。
単一の価値観すなわち男性が女性より優れている点を見て、優越しているという価値観に縛られて、その点からみて劣っているものを大切にすると言う心を育てることが出来ていません。

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2011年8月11日 木曜日

女子サッカーと女性サポーター(5)-NPO家族葬の会

日本の女子サッカーが強くなるには(どんなスポーツでもそうなのでしょうが)、サポーターが増える必要があるといいました。中でも必要なのはコアなサポーターですが、そのコアなサポーターは女子サッカー経験者達だと言いました。彼女達を組織しなくては、女子サッカーの未来はない、といっても過言ではありません。女子サッカーに強い共感を持つ彼女達はサポーターとして、女子リーグの運営上の多くの犠牲的役割を担ってくれるはずです。女子リーグにはお金が無いはずです。これまで無料だった入場料も優良にしていくことを考えなければなりません。誰が切符を売ったり券をもぎったり観客席の整理をするのでしょうか。何よりもお金を払って見に来てくれるのでしょうか。多くの部分を彼女達に頼っていかなければならないのではないでしょうか、そしてさらにより重要なことは、彼女達をサッカーママにすることです。自分の娘達にサッカーをさせることによって、その娘達はより多くの選手候補と同時にサポーター候補になっていくでしょう。これこそが本当の意味でサッカーの底辺の広がりというものではないでしょうか。

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2011年8月 9日 火曜日

女子サッカーと女性サポーター(4)-NPO家族葬の会

前回は、女子サッカーの裾野を子供達に広げるための環境整備が必要だと言いました。実は、さらに重要な問題があります。それは、女性達の多くが女子サッカーのサポーターになろうとしていないのではないかということです。ここのところのなでしこブームは、女性サポーターを多く生んでいるように見えます。なでしこの優勝が、このブームを生んだことは言うまでもありませんが、これを定着しさらにサポーターを増やさなければなりません。
それは、いい試合すれば見に来る人も増えると言うような問題ではありません。女性達がサッカーというスポーツを通じて新しい女性の側面を開発し、そのことに女性達が共感していくと言う過程が必要です。
もともとどんなスポーツでも、強さとスピードだけを求めるならば、男子のトップリーグだけがあればいいということになってしまいます。100メートルを走って1秒も違えば、競技をやめてしまうということになるでしょうか。槍投げでも重量挙げでも柔道でも、さまざまなカテゴリーがあって、それぞれが続きテイクのは、それぞれが固有の感銘や共感を与えていくことが出来るからでは無いでしょうか。
ハンディキャップのある人たちの競技は、あの体でよくやっていると言う共感だけで成り立っているのでしょうか。なでしこがゲルマン系の頑強な女性達と果敢に戦っているのを見て、小さいのによくやっていると思うだけでいいのでしょうか。日本の女性達が、女子サッカーと言うスポーツをすることに対して、深い理解と共感を持ち、Jリーグのではなく女子サッカーの熱狂的なサポータなってほしいと願っています。
続く

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2011年8月 8日 月曜日

女子サッカーと女性サポーター(3)-NPO家族葬の会

前回は、日本の女子サッカーを強くするためには、サポーターを増やさなければならない、そのためには第1に競技人口を増やして、コアなサポーターを増やさなければならないといいました。競技人口を増やすには、何といっても学校のクラブ活動の強化です。学校のグラウンドを整備して、女子が怪我を恐れずにサッカーに取り組めるようにする必要があります。
アメリカの女子サッカー(男子も)の競技人口を支えているのは、サッカーママたちです。聞いたところによると、アメリカでは夏休みの間、さまざまなスポーツを行うようです。野球とサッカーは人気を分け合う(野球より断然サッカーのほうが人気が高いと聞きました)競技(遊び?)だそうです。サッカーママたちは広場へ子供達を送り届ける母親達のことのようです。しばしば、交替でバンを運転して、近所の子供達を集めてグラウンドへ送り届けるようです。
アメリカではこのようにして、子供がサッカー遊びをする環境が整えられているようです。振り返って日本の環境を考えると、小さいころから塾通いがあり、のグラウンドも無く、子供のスポーツに対する理解も薄い環境であると言わざるを得ないのではないでしょうか。
実は、さらに大きな問題があると思っています。続きは次回に。

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2011年8月 7日 日曜日

女子サッカーと女性サポーター(3)-NPO家族葬の会

前回、女子サッカーの人気を持続させるには、競技人口を増やさなければならないといいました。いまサッカーの競技人口は、アメリカでは150万人(500万人と言う説もある)、日本では4~5万人と言われています。この差が両国のレベルの差であることはいうまでもありません。こういうと、「現実にワールドカップでアメリカを負かしたじゃないか。レベルの差があるとは思えない」と言う反論が聞こえてきそうですが、果たしてそうでしょうか。ワールドカップでの日本の勝利にけちをつけるつもりはまったくありませんが、あれは偶然に左右されたと言えば言いすぎでしょうか。もともとサッカーと言う競技は、たまたま入った1点が結果を左右することがある競技です。ある程度のレベルの差を偶然が左右する競技です。たとえば、10回戦えば、9勝1敗ぐらいの力差でも、大事な1戦がその1敗に当たってしまうことがあるものです。もっともそれだからサッカーは面白いのですが、偶然の1勝を喜んでばかり入られません。地力で力の均衡が取れていることが必要なのです。アメリカとは5分5分と言うのは難しいにしても、もう少し力を拮抗させていく必要があると思います。
そのためには、なんと言っても競技人口を増やし、女子サッカーの環境を整備していく必要があるのではないでしょうか。

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2011年8月 6日 土曜日

女子サッカーと女性サポーター(2)-NPO家族葬の会

前回ワールドカップで優勝した女子サッカーを発展させていくためには、「女性が女子サッカーをもっと応援することに尽る。その上で問題点はふたつあり、1つは、女子サッカーの競技人口を増やすことですで、2つ目は女性が女子サッカーを支えることだと書きました。
女子サッカーの競技人口を増やすことは、女子サッカーの共鳴者を増やすことにつながります。どんな競技でも経験者の支えなくしては成り立ちません。もちろん競技経験者だけがファンになるわけではありませんし、経験の無いファンも大切であることは当然です。しかしこうしたファンの多くは、いくら熱心でも基本的には応援してくれるだけです。それに対して競技経験者は、選手と女子サッカーの共鳴者としてコアな支持者になります。女子サッカー選手の苦労や苦しみ、また、逆境を跳ね返す努力とそれを達成したときの喜びを身を持って体験した人だけが知る、ワールドカップチャンピオンへの共鳴こそが、今後の女子サッカーの発展の原動力の一つです。
クラブの運営や練習設備の整備、チケットの販売などにはこうした人たちが欠かせません。当分の間は、チケット購入以外の身銭を切った支えなくして、女子サッカーは成り立っては行かないのではないでしょうか。そして、その共鳴者を獲得するには競技人口を増やしていくことが最重要課題です。女子サッカーの裾野を広げるのがどれだけ大変なことかは、言わなくても分かりますが、遠い遠い回り道であってもそこからはじめるしかないと思います。今の女子サッカー人気が一時的なもので終わってしまうことを危惧しています。
続く

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2011年8月 5日 金曜日

女子サッカーと女性サポーター(1)-NPO家族葬の会

女子サッカーのワールドカップで日本が優勝しました。テレビでいくつかのゲームをみて、女子サッカーのレベルの高さと日本の女性の精神力には驚かされました。日本チームのメンバーは、取材などで帰国直後から殺人的なスケジュールに追い回されていたようです。彼女達は女子カッカーがプロとしての評価を確立するため、精力的に行動をしているようです。世界ナンバー1を決める大会で優勝することによって大きな注目を集め、日本でプロを確立していくためのいまがその大きなチャンスだと感じていると思います。私も大いに応援をしていきたいと思います。
私は、日本で女子カッカーが日本で広く浸透していくためには、単に競技の上での向上だけでは難しいのではないかと考えています。それは、肉体的な強さやスピードでは男子にはかなわないからです。女子サッカーを見た後にプレミアリーグを見ると、とたんに女子サッカーが色あせて見えます。それはいたし方が無いことでしょう。
では、どうすればいいかというと、一言で言うと「女性が女子サッカーをもっと応援する」ことに尽きると思います。その上で、問題点は二つです。
1つは、女子サッカーの競技人口を増やすことです。2つ目は女性が女子サッカーを支えることです。
続きは次回で。

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