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コラム

2011年8月21日 日曜日

サッカー観戦と私-釜本邦茂

1963年には、まさにサッカー界の実力の移り変わりの時期に早稲田と言う得意なチームが存在した年でした。いや、早稲田と言うより不世出の天才釜本邦茂が早稲田大学に入学した年でした。(ちなみに、かくいう私も同じ年に早稲田大学に入学しました。関係ありませんがあの吉永小百合嬢が第二文学部に入学されたのもこの年のことです。)
1960年京都府立山城高校に入学した釜本は、すぐに全国にその名をとどろかせる存在になりました。高校時代の華々しい活躍は枚挙に暇がありませんが、すでに高校生として全日本メンバー入りかと噂されていました。(実は、私は釜本と同時代のユース選抜メンバーの数人の友人がいました。彼らから、とても高校生とは思えない釜本のサッカー以外の分野での行いの話しを聞いていました。今となっては、あれだけの体と運動能力を持っていればそれも当然かと思えますが、当時はとても驚いた物です。)
彼は早稲田に入学した翌年の1964年と1967年の2回、早稲田は天皇杯(日本選手権)で優勝しました。1964年には日立製作所(現柏レイソル)を1967年には東洋工業(現サンフレッチェ広島)を破ったものです。
この勝利を最後に、学生が日本選手権(天皇杯)を勝つことは無くなっています。実力が学生から社会人に動いていくときに最後っ屁のように、早稲田は釜本と言う怪物を擁して勝利を収めたのです。釜本の外にもこの時代には早稲田大学ア式蹴球部(早稲田ではサッカー部の正式名称をこういう)には、後のユース監督となった松本育夫、後の全本メンバーから全日本の監督になった森孝滋、山城高校時代からの釜本の同級生二村昭雄など葬送たるメンバーがいました。(ちなみに少し先輩に川渕三郎や鬼武といった人たちもいました。)
こうした優秀な部員がいたサッカー部でしたから、天皇杯2度優勝と言う釜本の輝かしい戦歴が、社会人優勢の時代に成し遂げられたのです。しかし何といっても釜本です。釜本と同時代に早稲田に在籍し(私はけっして早稲田が優秀ないい大学だとは思ってはいませんし、別に好きではありません。ただサッカーとラグビーが好きで当時の早稲田は両方とも実力と人気を兼ね備えていました。したがって、そこだけは好きだったと言っていいかもしれません。)、の釜本の試合を見ることが出来たことは、競馬ファンがシンボリルドルフやディープインパクトのレースを自分の目で見たのと同様の、死ぬまで語り続けるべき大変なよろこびでした。
釜本は、ストライカーとして日本が世界に誇ることの出来る最高の選手でした。「釜本の前に釜本無く、釜本の後に釜本なし」。

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